【特別寄稿】我々の「俳句甲子園」はこうして誕生した(新矢 一)
【特別寄稿】我々の「俳句甲子園」はこうして誕生した(新矢 一)
※これは、『一冊まるごと俳句甲子園』(2010年、カドカワムック)に初出掲載された、NPO法人俳句甲子園実行委員会初代会長の新矢一(しんや・はじめ)様による書き下ろし作品です。新矢一様の著作権継承者様よりご快諾をいただき、ここに全文を公開いたします。(2024年10月9日)
「始まりは…いつも小さい」(「だからことば大募集」入選作品)
この言葉どおり、1998年8月19日(ハイクの日)、松山大学キャンパス内カルフールホールにおいて、松山市周辺9校9チームの参加により、俳句甲子園事業はその小さな産声を上げた。
主催は(社)松山青年会議所(以下、松山JCと略)。青年会議所は、1月から12月までを一年度とし、年度ごとに代表者である理事長はじめ組織構成を一新して、自分たちの会費を組織運営や事業に充当する団体である。松山JCは1975年より22年間にわたり、松山市内の小学生を対象に文化事業「句碑めぐり」を展開していた。
道後近辺には数多くの句碑がある。そこを吟行してもらい句を創作、俳句団体の協力のもと選句表彰して、全句収録の冊子を参加者に配付するものだ。私自身、その句碑巡りの引率経験もある。
句碑めぐり事業は1998年に幕を閉じた。同種の文化事業が官民問わず多く見受けられるようになったことを受け、その在り方と意義を問う理事長や担当委員長が現れたためである。これを機に、より発展的なまちづくり運動、並びに俳句文化を発信できる事業を創るべきであるという気運が生まれた。この志の下、新たな事業構想が動き始めた。
1
松山市内に住む子どもたちは、ごく普通に俳句に接して育つ。小学生の時期から宿題などで俳句を創作するし、40回以上も続く子規顕彰松山市小学校俳句大会では、入選句等は短冊となり、中心商店街のアーケードに掲げられる。
しかし、真に俳句を理解して、本来自由な創作ができるはずの中・高校時代になると、著名句の鑑賞や史実学習に偏重してしまう。荒っぽい言い方をすれば、松山に育つ子どもたちにとって俳句とは、半ば強制的に作らされた経験と、敷居の高いものという印象のみが残る。我々の俳句教育に対する感覚は、創作の楽しみを知ることなく、自然消滅的にその機会も失うというものであった。
そこでまず、俳句に対する垣根を取っ払おうというのが事業目的となり、計画が進んだ。
当時のネットワークと発想で、最初に委員会が打ち出した案は、「俳句クイズ ハワイをゲット!!」
松山市営球場の解体が決定していた当時、市街中心部に位置するここで、観客が持ち寄った創作句を審査し、もっとも優れた作者に、文字通りハワイ行きチケットを手渡すというアイデアであった。
ところが、年度開始前の打合せ会において、この企画の継続意義にメンバーから疑問を投げかけられ、あえなく頓挫。発案が軌道に乗らず、メンバーは路頭に迷った。
ここに救いの手を差し伸べたのは、俳句甲子園の母とも言うべき夏井いつき氏だった。夏井氏らは、高校生を対象とした俳句甲子園事業を温めていた。
俳句を身近な存在に感じて、参加者が俳句を作ることができる。俳句の楽しさを知るきっかけとなる。しかも高校生対象で、創作鑑賞ライブともいえる。 「俳句クイズ」構想の頓挫に消沈していた委員会メンバーは、画期的なこの事業との出会いに動き出した。
*
松山JCで俳句甲子園事業を担当したのは、文化発信委員会である。残念ながら事業創設当時、私はこの委員会に所属していない。メンバーとして事業に魅了されるのは、第2回事業からとなる。
しかしながら、松山JC理事の一人として、また立上げメンバーの親しい友人の一人として、この運営の始まりを眼前にしたことは感慨深い。ほぼ草創期から立ち会うことができたことは、私自身、以降この事業に対する情熱の源となった。以下、松山JC内での記念すべき立上げについて、その模様を記す。
2
俳句甲子園を松山JCの事業として立案、そして実行に導いたのは、寺田委員長、徳本副委員長ら、実質的には数名の委員会メンバーによる。まずは夏井氏らの抱く事業構想を解釈し、開催趣旨・目的など、事業内容の明文化を行った。このとき作成した事業文は現在も活用している。この書面をもって行政の賛同を乞う。さらに後援申請を働きかけ、県市両教育委員会に対して様々な手段で直接交渉。
しかし、実績の無い事業ということで、支援はいただけなかった。 こんな状況に臆することなく、句碑巡り事業などの実績をアピール。加えて、事業の有する可能性、生徒達に対する影響などを分析し、得意のマニュアル文を作り上げた。 とにかく参加チームがいなければ事業は成り立たない。具体的な大会内容を、旺盛な想像力で作りこんだチラシを作成し、松山市周辺ほとんど全ての学校長を訪問する……。若さゆえ可能な、直線的行動力を全力でもって発揮した。
そして、いっさいの実績なしで、松山市周辺9校の参加=事業への賛同を得た。 限られた予算の中で、新規事業を始動するに相応しい会場を手配することも大きな課題であった。
幸いにも、松山大学の特別な配慮で、キャンパス内のホールおよび教室を無償で借りることができた。このことも、第1回大会成功の大きな要因であった。 新しい事業と出会い、その可能性を信じてとにかく行動する——。水面下で着々と進行した当時のこの姿勢は、以降、学校訪問や後援依頼など、外部団体との直接交渉において、JC俳句甲子園事業担当者の最も得意とするプロセスとなる。
この頃、その場その場でいただいた、様々な角度からなるアドバイスと、それをもとに事業の現状を分析し、適切なタイミングで活用する柔軟な姿勢は、後々まで当事業の礎となる。立上げ時にもっとも困難を要したことの一つに、組織内部での環境作りがあった。事業に対する関心を高め、協力者を得ることが想像以上に困難だったのだ。当時、県庁所在地のJC組織には、200名を超す委員がいた。各委員会がそれぞれ年に一度、担当事業に関連した例会を開催するのだが、その6月例会に夏井氏を招き、ライブ句会を実践した。
俳句とは明らかにミスマッチと言える青年経済人達に、兎にも角にも創作させ、句会で互いの俳句を議論し、作ることと鑑賞することの楽しみを体験させた。 夏井氏にはその後、事業の必要性を文化・地域おこしの両面から語っていただいた。
この例会は、俳句甲子園事業を松山JCが取り組むことの理由、果たすべき役割の必然性と重要性、事業の継続により育(はぐく)まれる可能性等、これらを知るための意義深いものとなった。
3
そして8月19日、第1回大会を迎えた。総予算60万円。そのほとんどが、今なお全国各地の高校を巡る優勝旗の作成と、看板作成に費やされた。その他必要な備品は、当然のごとく担当メンバーの会社から持ち寄られ、この日を迎えた。
当日は地元メディアからの取材申し込みが殺到した。受付を担当した私自身、それまでの松山JC事業で経験したことのない熱気だった。新聞記者の数やTVカメラの台数を前に、事業に潜在する可能性を感じずにいられなかった。
終了後、関係者との交流会会場となったビアホールに流れた全国ニュースでは、俳句甲子園事業が紹介されていた。この事業の未来を象徴するものであった。
第1回を終え、松山JC理事会が行われた。ここでの寺田委員長の次回への引継ぎ事項を引用する。
「俳句甲子園を今後も継続していく前提で、次年度は、どこまで対象校範囲を広げるべきかという開催規模や、開催期日、競技方法など検討課題が多数ある。今回の俳句甲子園参加者、引率者からのアンケート結果や、市民からの意見を参考にしながら次年度開催に向けて外部協力者とも充分に協議検討をしてゆくべきと考える。」
この姿勢は、運営組織のあるべき姿として今なお継承されている。
4
第2回大会以降は、第1回事業実施により確認できた課題を徐々に解消していくこととなった。前年実績を携え行政団体の後援を獲得し、学校訪問のエリアも、松山市周辺から愛媛県全域に広げた。そして12校14チームに参加規模を拡大。知事・市長にも来賓としてお越しいただいた。第3回大会時には日本財団の助成事業となり、予算規模は大きく拡大した。参加エリアも香川・岡山・三重の県外に広げ、2日間開催の事業となった。助成申請にあたっては、交渉過程の記録が大事である。事後の報告書作成や監査など、他団体の支援を継続的に受けるためにも、当年の綿密かつ適正な事業・予算計画と事業の将来像を見据えた中長期のビジョン設定が必要であることを学ぶ機会となった。
また、その都度様々な助言を事業担当者や監査の方々から頂戴した。日本財団による支援は第9回大会まで6年間続いた。
いよいよ担当委員長の任を免れられなくなったのは、第4回大会からである。松山JC内の事業に対する認知度も上がり、委員会は20名を超える優秀なメンバーの集合体となり、構想が膨らんだ。担当委員長の時期でもあるので、この回は少し詳しく順序だてて事業の変遷を辿る。
5
2000年10月、翌年の第4回開催を前提に、事業担当となる歴史文化発信委員会が発足。直ちに事業計画、予算計画、そして日本財団への申請を行う。主メンバーにて第3回大会結果報告書を持参。行政や後援者を訪問し、第4回大会への引継ぎと支援をお願いする。事業計画は次のとおり。
大会は参加チームを24チームに拡大し、試合前日8月17日にウェルカムパーティー(参加者集合日の前夜祭および抽選会)を開催。ここで交流・抽選会を行う。大会第1日目となる8月18日には、予選を代表3句によるリーグ戦形式で行い、2日目の8月19日には、敗者復活戦勝利1チームを含む4チームで準決勝戦を行う。準決勝戦以降は5句勝負のトーナメント形式で行う。
従来のトーナメント形式では、実質1試合しか経験できないチームが半数に上る。参加者それぞれに準備を重ねてきた大会なので、改造策として予選リーグ戦を採用した。これは現行に近い試合形式である。また、敗者復活戦創設により、全チームが最終日まで参加できることとなった。興奮冷めやらぬ中、勝ち残ったチーム同士の試合の様相をライブで観戦することもできる。次回以降の参加意欲の高揚と、参加したことをより意義深く体感してもらえると考えた結果による。
試合方法も、定められた時間内でのディベートと攻防という従来の規定に加え、赤白攻守の時間を等しく分配し、質疑応答の形式を採用、自発的な句の解説を制限することとした。また、地域ぐるみで参加者を受け入れるためには、事業に対する地元の認知度を高揚させ、、開催地自体が盛り上がる必要性がある。しかし残念ながらニュースソースとしては、実施後の1回しか、一年を通じて伝わる機会がない。この状況を鑑(かんが)み、会場の変更に踏み切った。
無償で提供をいただき続けた松山大学関係者の方々には感謝しつつ、よりオープンで、自然と人が集まる会場での開催を目指した。具体的には第1日目を松山市総合コミュニティセンター(現在最終日を彩る会場)内の6会場で、最終日を松山中央商店街(大街道)アーケードに面する三越アトリウムコート(現在四国地方大会松山メイン会場)で行うこととした。これらの企画はすべて、参加チーム、予算や支援に関する見通しの全くない中での、いわば見切り発車であった。
11月、事業に追い風が吹く。松山市役所の企画政策課担当池田主査(2000年当時)より、「2001年度は正岡子規没後100年に当たり記念事業を市役所として全国的にPRする。そのメイン事業の一つとして第4回俳句甲子園を支援したい」との申し出をいただいたのだ 。そこで、松山市に対する具体的な要望事項として①参加者招聘(しようへい)費 ②会場借り上げ料 ③広報誌による記事掲載 ④全国大会に相応しい会場設営協力、以上4つの提案をした。この提案書は、前述した全国24チームを対象とした事業計画を予算立てし、第3回の成果物を企画書として添えて、12月早々に提出した。
大きな変化を予感しつつ1月、これまで事業を共に支え続けていた夏井氏と会合を持った。全国に事業を発信する今回の支援体制や新しい運営方法など、提案事項を協議し、審査員の増員や一層の協力を夏井氏にお願いした。また今回を期に、伝統俳句協会、現代俳句協会、俳人協会の3団体に、委員会として正式に後援要請する意向を表明、実現に至った。
2月、事業支援が拡大する中、NHK松山放送局との打合せが行われた。NHK松山放送局からは、本年、事業に対する協力の意志が無い事を表明された。予想しなかった事態に、この日の夜メンバーを緊急招集。その席で、地元の番組化が現状不調に終わったことを報告。事業を知っていただく機会が大きく損なわれる危機感を共有し、次善の策を練った。ならば、予選リーグ戦会場を県内一の集客を誇る大街道商店街に設営し、往来の買い物客の眼前で事業を展開し、最終日の集客にもつなげようという提案をした。もちろん参加者のみならず、スタッフ、準備を進める委員会メンバーに大きな負担となる。リスクレベルが大きく拡大することは承知の上だった。
私の覚悟を感じ取り、委員会メンバーの雰囲気が一変した。この変革をやり遂げる一員であることの心意気を、それぞれに感じ入ったことが伝わる。私自身、事業を通じて最も印象深い一夜となった。翌日、松山市役所より全国学校招聘・予算補助・宿泊施設の提供など、支援プランを表明いただく。市へは、予選リーグの会場変更や今後の実施にいたる経緯・変更計画を相談、了承いただいた。
翌々日、中央商店街振興組合理事長への正式依頼。使用承認と協力表明という熱いエールをいただいた。
3月にはまた新たな展開があった。松山市「ことばのちから」実行委員会から、俳句甲子園の大街道商店街における予選リーグ開催に合わせ、事業の相乗効果を狙ったイベントを複数展開する計画を提案された。具体的には、俳句甲子園を中心とするイベント一切の運営、設営、さらには県外招聘旅費や経費管理も含め、総合プロデュースを大手広告代理店が行うという内容であった。
この有難い提案は、我々事業の運営母体を悩ませた。予算、運営規模が大きく膨らんだ上、設営会場が未経験の場所である。本大会、プロデュース、管理まで、イベントのプロに任せる方が現実的で楽ではある。しかし、事業目的を果たすために、何より事業を第5回大会以降に?ぐために、頼りきってよいものかどうか。俳句甲子園がイベントの1シーン化し、埋没してしまわないか。そうならないために、協働にあたっては、俳句甲子園事業が前面にでるスタイル展開とした。松山市側の発案に対し、主張すべきことは自信を持って主張し担当する姿勢を貫いた。そのためにも、招聘費や経費など、俳句甲子園運営に関連する事項は、委員会組織を核とする確固たる運営体制を作り上げ、これまでの事業経験を活かしながら綿密な企画案を作成した。ただし、仕事としてイベントを作り上げる代理店の手法、考え方、ネットワークも活用し学ぶべき好機と考えた。設営に関する具体的プランニングや実施は、選択可能な形で代理店サイドに提案いただくこととした。
このように、運営協力方針が決定。松山市・広告代理店の皆様にも了解いただき、大会を成功に導くための準備事項を進展させる。同月末、日本財団の助成が決定。これを受け、予算書を確定。運営上支障がない商店街内の設営スタイルを図面化し、関係団体への説明会を開催した。 それぞれ要望と助言をリサーチしながら支援要請し、事業に対する理解と協力を表明いただく。松山市による全国的な学校募集招聘活動の一方、委員会メンバーは8班に分かれ、エリアを四国4県に広げ、計112校を訪問。このような中、今大会の放送化こそが次回以降に発展を誘引するとの意見が上がり、事業の番組化を期待する声が高まった。必要経費として最低限の製作費用を捻出し、地元メディアによる番組化協力表明を獲得。併せてTV局からCMスポット案内など、スポンサードの在り方を教示していただく。5月30日、松山JCの名簿を片手に2名で電話連絡。30分足らずで番組制作費を集める。こうして愛媛での放送枠を獲得した。
6月29日、運命のエントリー高校締切日。県外16校県内12校という多数の表明をいただき、選考の結果1都14県、県外15、県内9校が全国大会進出となる。
7月2日、「ことばのちから2001」との共同事業として、松山市役所内において記者発表を行った。希望どおりの大会規模での運営が決定したものの、それからの準備は予想を上回る多忙さ。集まってくるチーム個人情報の整理や膨大な俳句は、当時はすべて紙ベース。この時期、メンバー企業の事務担当者まで、容赦なしに委員会メンバーと化した。
6
そして大会初日。初日とはどの回もひとしく感無量である。参加者や当日運営に関わる皆様も同様に、これからの展開に期待と不安を抱いて会場に足を踏み入れるだろう。
私たち運営サイドは、それぞれに1年間を要して準備した大会が、予定通りに着々と進むことを祈りながら開会を迎える。大会は1年間の成果発表である。と同時に、それぞれ違った関心事で参加する人々に、どのように感じていただけるのかを検証する場でもある。また、この事業に様々な形で投資いただいた人々へ感謝を表現する場でもある。
近年この場面に、我々の子ども世代のボランティアスタッフが数多く見受けられる。今では実行委員会に所属し、事業を形作る段階から自ら率先して提案や活動を実践しているスタッフも多数いる。その姿を見て、従前の松山JCという運営主体の時期から続く、メンバー・参加者を含む関係者との絆を感じ、事業を愛する文化が組織の和を広げ、そうして育っていることを確信する。組織的かつ事業愛に溢れる自発的な行動に力を得ている。
後輩達に俳句甲子園を経験してもらいたいと願う気持ちが、世代と地域を超え、若者たちを集わせる。俳句に触れる機会として俳句甲子園を経験し、生活の一部として句作を継続することは、本当に素晴らしい望むべき一つの事業成果である。同時に、事業の運営主体の一人として事業発展を願い、一人でも多く将来の参加者達の為に役立ちたいと願い活動する彼らの姿も、私たちにとっては誇るべき事業成果と考える。
準決勝と決勝戦の兼題発表を、ウェルカムパーティーにおける抽選会後に実施。翌朝までに各自2句作成をしていた。当然のことながら、すでに芽生えたチームの結束により、一句でもできなければ眠らないという事態も発生していた。翌日は、過酷な大街道商店街6ブロックを特設会場化し、俳句甲子園初披露。各会場には、各局の協力でアナウンサーを派遣していただき、ルールに則し、俳句関係者とのコラボで司会進行。自然と各局の取材熱も高まる。
高校生達がマイク片手に声を張り上げる。その姿に、週末の買い物客の足は停まり、地元商店街の方々も店から出て彼らの議論に聞き入った。同年代のカップルもアイスを片手に見守る。何より新鮮で関心の高まりを感じる光景であった。翌日の三越アトリウムコートは満員御礼、スタジアムを見下ろす喫茶席まで観客が埋め尽くす。店内スタッフは、滞留する観客の整理と誘導に汗まみれである。
準決勝、決勝戦では、句が披講され的確な表現で議論が交互するたびに感嘆の声が上がる。奇(く)しくも正岡子規出身校同士、開成高等学校と松山東高等学校による決勝戦。
起立礼着席青葉風過ぎた
松山東高等学校(当時)神野紗希さんの句で勝敗は決した。
同会場での表彰式が終わる。まずは共に作り上げてきた松山JC委員会メンバーが、続いて松山市の担当者、審査員、設営スタッフまでもが駆け寄ってきて、握手を交わす。数々の握手から、それぞれに準備の過程を経てこの場面を共感できたことに対する喜びの気持ちを感じた。
7
事業を終え、報告書を作り、決算を行う。途中全国各地の報道情報が寄せられ、文化発信事業として果たしたその役割を知る。参加者からの感謝のメッセージやアンケート結果が集まり、今後の展開の模索が始まる。予定していた事項の進行状況や周囲の状況から、ストレスの度合いと効果のバランスを推し量る。これらの分析をしつつ、すべての情報を整理する。終わった瞬間から次回の企画はスタート、これを繰り返しバージョンアップしてきたのが「俳句甲子園」だ。
第6回時には、現在の「NPO法人俳句甲子園実行委員会」を正式に組織化。事業の効果を期待し、地方大会を実施。
第7回時からは全国大会を現在の36チームのスタイルで運営。このときは映画化までも実現した。
継続的に、しかも通年で事業を展開する必要性があるため、運営母体を松山JCからNPO法人俳句甲子園実行委員会に移行した。現在、実務はNPOメンバーにボランティアメンバーを加え、年度ごとに構成される実行委員会が中心となり企画、運営している。
NPO、実行委員会ともに、会長、実行委員長など役職はあるものの、全員仕事や学生活動など、社会的役割を実践しながら無償で事業の一端を担う。一見華やかに見えるこの事業も、現在組織に所属して、主体的に活動を支えるメンバーは意外に少ない。
時代の変化の中で共に事業を支え続けるメンバーは、学校募集、企業協賛、広報宣伝、企画運営、審査員担当などの部門に分かれ、様々な期待を持って関係する人々の笑顔を支える。月例報告会での真剣な議論の結果、準備された舞台裏で、それぞれに担当する部門で、関係者の様子を窺うメンバーの姿が増えている。私にとって何より心強く、そして事業の成果を実感する瞬間だ。
近い将来、全国に広がった若い世代を中心とする実行委員会組織の活躍によって、必ず地方大会は、47都道府県で開催される運びとなるだろう。それらの代表者による華やかな全国大会が実現されるものと確信している。その日の到来を心待ちに、彼らの成長を見守りながら、これからもこの俳句甲子園と共に歩みたい。(了)