【特別対談】寺田太郎(第1回実行委員長)×夏井いつき(審査員長)

【特別対談】寺田太郎(第1回実行委員長)×夏井いつき(審査員長)

特別対談
寺田 太郎さん(第一回大会実行委員長)×夏井いつきさん(審査員長)

俳人の夏井いつきさん。そして第一回大会実行委員長で、社団法人松山青年 会議所(以下、松山JC)元理事長の寺田太郎さん。二人の出逢いが俳句甲子 園という奇跡を生みました。立ち上げた張本人たちが、包み隠さず当時のことを語ります。(文・俳句甲子園実行委員会)

#明るいカリスマ、太郎さん
寺田太郎(以下、寺田) 松山JCって、長年「句碑巡り」という親子参加型事業 をやっていたわりに知名度ないですな。
夏井いつき(以下、夏井) 最初JAとの区別がわからんかった。農協と違うんかい? って。
寺田 このまま「句碑巡り」でいいのか、と誰もが感じつつ継続していて、当時の理事長から「何か考えてよ」と言われたんですよ。副委員長の徳本晃久さんと、「さあ、 なにやるで」「俳句しかなかろうなあ」「けど敷居が高いわなあ」「しかし俳句やらんと、俳都松山とは言えんやろう」…
夏井 松山全般、俳句で盛り上がるような街ではなかったものね。
寺田 そこで考えたのが、夏祭りに合わせて「俳句クイズ、ハワイをゲット!」
夏井 懐かしい!
寺田 企画書を作り、予算申請も出したんですよ、百万円で。垣根を低くして、松山の誰もが俳句に親しむきっかけづくりの事業にしたい! この高い志は俳句甲了園の原点です。ある日、松山JCの専務理事で、経済同友会にも所属しとった山本恒久さんが、夏井さんの存在を教えてくれよった。私が松山JCに入って四年目の一九九六年に、「俳句甲子園」構想を講演する夏井いつきさんに会ったわけです。

#鉄の女、いつきさん
夏井 学校を辞めて、俳句好きの一人として活動を始めていた私に、『子規新報』発行のお声がかかりました。坪内稔典さんたちと話すうちに、それまで何度か頓挫した俳句甲子園を一緒にやろうという話になった。その構想を、『創刊記念の集い』の壇上で発表したのが一九九五年でした。
寺田 いま大会に出場する子たちが生まれた頃やね。
夏井 それからは、実現のための奔走が私の毎日でした。ちょっと必死でした。県庁、市役所、四大学の学長、JCのOB、経済界、マスコミもメンバーに入って、発起人会までこぎつけた。ところがその席上でお金の話になり、いきなり紛糾して壊れたんです。
寺田 目も当てられませんな。
夏井 あんなに必死でやって、こんなところで空中分解ですか? と体にこたえた。脛が砕けた。でもこの時、あきらめの悪かったのが二人いて、 一人はもちろん私。もう一人が松山大学の宮崎満学長で、私と太郎さんを巡り合わせてくれたキーパーソンです。ことあるごとに、私に俳旬甲子園について話す場を作ってくださった。経済同友会の講演もその一つでした。前日、軽自動車を運転中に後ろから四駆に追突されて、お尻に青痣、全身打撲だったけど、講演しに行ったのです。鉄の女なので、ワタシ。
寺田 そんな時でしたか、われわれが巡り合ったのは。

#六十万円持ってます!
夏井 共通しているのは、松山から何か発信するとしたら俳句だと思っていたこと。そのための模索を諦めずに続けていたことですね。
寺田 数日後、京河一臣室長と徳本さんと二人で夏井さんの事務所を訪ねました。
夏井 私の大嫌いなケーキを持ってね。
寺田 スルメでも持っていくべきだったとすぐ悟りました。
夏井 この三人との出会いは運命的でした。
寺田 当時、JCには二百人くらいメンバーがいて、ある程度のマネーはあったが、いかんせんノウハウがなかった。
夏井 よく「事を成す時に必要なのは志とやる気、アイディア」とか言うじゃない。そんなのいくらあったってできない。金なくしてできるわけがないんです。
寺田 予算申請出しとりましたから、
夏井 あの日一番の決め台詞が「六十万円もってます!」だった。三千万円に泣いていた私に、まるで桁の違う額を誇らしげに言った。子どもは小さく産んで大きく育つというじゃない。私はこの人達と手を結ぼうって思ったの、 正確にはいくらたった?
寺田 内部事業で余ったお金も横流しして六十八万円。最後、二百八十四円くらい残ったよ。赤字は出さん。赤字を出したらゼッタイ反対する奴が出てくるから。
夏井 動き出して一番印象に残ったのが、JCの機動力。
寺田 正直、継続ではなく単年事業やと思ってました。またJCの先輩たちには、「俳句甲子園には触るなよ」と忠告する人もいた。「おまえは夏井いつきと心中するつもりか?」とも。
夏井 それまでの経緯がありましたからねえ。私は私で『子規新報』の人たちから「早目に撤退しないと大変なことになるぞ」と心配されたりもしました。俳句のことを全然知らんお兄ちゃんたちと手を組んでいいのかという思いもあった。
寺田 JCはもともと黒子(くろこ)が得意なんです。裏方での推進がぼくらの役割であって、前面に出てどうこうするような団体ではなかった。その点、夏井さんはまさにロケットの心臓部分だった。
夏井 あなたがたはあまりにも俳句を知らなかった。そして知らないということが私にとってマイナスではなかった。
寺田 やりましたね、隣の委員会も呼んで合同句会を。テーマは「雪」。わしが「雪雀きょうの私は千鳥足」って詠んだら、「これだれが作った句かすぐわかるわあ!」って夏井さんに言われた。あともう一句が、「雪化粧テレビのあなたは厚化粧」。
夏井 ほらね、この通り、愛媛県に住んでいながら俳句を全然知らない(笑)。こんな若者たちが、何かを発信するとしたら俳句しかないと思っている事実。 これこそが、松山が俳句 の都、愛媛が俳句の国であることの大きな裏付けではないかと思った。
寺田 ぼくらは難しいことは言い合わない。会議は短く、二次会は楽しく。
夏井 そうそう、どうやったら楽しくやれるかを一番に考える、能天気な明るい人たちだった。今になってしみじみ思うのは、太郎ちゃんが委員長で、徳さんが副委員長で、京河さんが室長っていう天の配剤が素晴らしかったと思う。太郎ちゃんは仕事しません。でも、太郎ちゃんのもとに集まってくる人たちは皆、「太郎が言う以上は」と、気持ちよく動いてくれる。徳さんは頭脳派。太郎ちゃんの言うことを実現させる能力はずば抜けていた。京河さんの存在感は後に明確になります。

#会場は無償で
夏井 そうと決まれば電光石火、会場を提供していただくこともあって、松山大学へ挨拶に行きました。行ったら学長が代わっていて愕然! 結果的に御提供いただけましたが、この時もし会場費とられたらゼッタイできんかった。今思うと綱渡りだったね。もっとも、そもそも足りる予算じゃなかったけどね。
寺田 プラカードは家具屋の徳さん(徳本副委員長)が作り、 プリントアウトは奥村保樹さんがやり、全部自前や。
夏井 この人らの行動力と組織力、すごいと思った。
寺田 高知のまんが甲子園は三菱商事と全日空がスポンサーで一千万円以上の予算でやっていた。俳句甲子園は六十万円。その時JC内部で、「俳句甲子園」というネーミングが気に入らん」という話があった。柳の下のドジョウに見えるって。高校生の大会の代名詞としての甲子園なんであって、これでやろうって話ですから、これでいきますって言った。全国規模になったら甲子園でいいんやって説明責任を果たしてきた。直接文句言う奴は一人もいなかった。来たら飲ますけん。

#参加校を集める
夏井 出る生徒がいるかいな、という不安はずっとありました。
寺田 俳句の協会に後援をもらう話もあったけど、断られちゃった。教育委員会も市も。そういうのに後援は前例がないって。
夏井 よう一回目にこぎつけたわ。
寺田 後援はさほど問題ではないと思っていた。前例がないとか、わざわざ言ってきてくれるから、「そうですか、ワッハッハ」とこちらも言ってた。
夏井 太郎ちゃんのそういうところがえらいよね。JCの人は誰一人、俳句甲子園がどんなもんか分かってないのに、県下全校に散っていくんだもん、分からんことを説明しに。
寺田 そういえば、叔母が済美高校の教員だというつてをたどって出場交渉に行ったなあ。
夏井 そうやって一校一校当たって説得し続けてくれるという現実にカルチャーショックを受けましたよ。どんなにノーと言われても突き進みましたね。
寺田 委員会でみんなが集まるたびに、自分がお願いに行った成果を報告し合いました。
夏井 学校の返答が一覧になってるんだけど、備考欄に「脈がある」とか、「進学校なので、この時期は補習だから出られません」とか、分析して丁寧に書いてあるの。「門前払い」とかね。窓口に出てくれたのが誰とか、「教頭はいい人だが校長はだめ」とか。忘れがたいのが「校長ハナクソ」と書いてあったやつ。笑うやら悲しいやら。
寺田 それ書いたメンバー、最初は俳旬甲子園に対して少々否定的だったんですよ。
夏井 そんな彼が学校巡ってくれてね。言いたいことは山ほどあるだろうに「ハナクソ」と一言書いて。それを私らが笑って、次のエネルギーに変えて。撃たれても踏まれても、というサイクルが育ち、九校参加の開催にこぎつけたわけですよ。この集団て何なんやろって思った。

#第一回大会を終えて
寺田 打ち上げで大和屋本店に行ったでしょ。その時、いつきさんに「タロウ、 一句詠め!」って言われて詠んだのが「大和屋のビールの前で我伏せり」そんな気分だった。で、乾杯してすぐにNHKの全国ニュースで俳句甲子園の映像が宴会場の大スクリーンで流れたんだけど、お酒の飲めない京河さん、もう既に泣いてるの。
夏井 ここで京河さんの登場ですよ。終わったらみんな泣きたいわけです。京河さんがあれだけ泣いてくれるから「泣いていいんだ」と許可をもらえたような気になれた。明るいカリスマの太郎さん、実務をやらしたら鉄壁の徳さん、「泣けよ!」ということを許してくれた京河さん。この三人なくして一回目はあり得なかった。
寺田 やりがいを求めていたんですよ。いつきさんが言いよることはうそやないってよく分かった。
夏井 第一回大会が終わってやれやれの時に、俳句甲子園に対して批判やら妨害やら、すごいのが来ましたね。象徴的な悲しい出来事でした。
寺田 障害だらけやったな。これ以降のことは、『一冊まるごと俳句甲子園』に新矢一事務局長が書いとる。
夏井 私らだけが知っとる話はこのあたりまでですかね。さあ次は誰がどんなことを語り継いでいきますか? (了)

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