小倉蒼蛙句集『優しさの手紙』一句鑑賞

小倉蒼蛙句集『優しさの手紙』一句鑑賞

ステージ4の肺がんから現代医学の力で生還。役者としても蒼蛙(そうあ)の名で活躍する小倉さん。全国俳人による一句鑑賞です。(2025年3月20日〜2025年6月7日)

燕もう飛び去ったらし昼の月  蒼蛙

   春に飛来した燕が、新しい家族とともに南の国に帰ってゆくのは概ね十月。さすがに朝夕には肌寒さを覚えるころだ。燕たちは、天高くなると伸びやかに飛翔し、上昇気流に乗る練習を始める。そんな姿を見ると、帰る日が近いのだなと思う。そして、ある日、もう燕が去ってしまったことに気がつく。〈飛び去ったらし〉という推量表現には、そんな気分が籠められている。さらに、この句に心惹かれるのは、下五に〈昼の月〉が置かれていることによる。人の傍で生活し、子育てを終えた燕たちが姿を消してしまった寂しさを〈昼の月〉がよく語っている。秋天に白く薄々と掛かる月が、燕の去った空に、名残を惜しむかのように、空虚さを慰めるかのように思えるからだ。〈昼の月〉は去ったものの余韻そのものなのだ。 

 この句集の題名『優しさの手紙』は山田太一さんへの追悼句〈優しさの手紙を今も冬あたたか〉から取られた。他にも「サヨウナラ」の添えられた追悼句がたくさん収められている。作者によれば、追悼句を詠むのは自身が、それらの人を忘れないためだという。冒頭の句は追悼句では無いが、去りゆくものへの挨拶であると同時に、燕の去った空を眺めた日の自身を忘れないための一句なのかもしれない。

 『優しさの手紙』にはたくさんの生き物が登場するが、ほとんどが一度限り。去りゆく燕も一度限りで、〈昼の月〉とともに、優しさが深く心に響く。

井上弘美(いのうえひろみ)/「汀」主宰・「泉」同人(2025/06/07)

 

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人の世の日向と日陰かたくりの花  蒼蛙

 小倉さんは、芸能界という華やかな世界(一種の日向)にいながら、俳句の世界では、人の世の「日陰」つまり日常に光を当てる。日々の暮らしでやりとりされる心の機微を、季節の移ろいの中に描出していく。

   山笑う妻に手品のタネ明かし 

   二人して食後のくすり金魚玉 

 奥様との何気ない一齣一齣を丁寧に俳句に掬う。〈山笑う〉〈金魚玉〉といった季語が、その日常が穏やかで優しさに満ちたものであることを語って余りある。

 俳優・小倉一郎(蒼蛙)さんが演じるのは、心優しく悩み多き人物が多い。「日陰」側から世の中を見つめる繊細な役柄だ。句会で初めてお会いしたときの小倉さんはもの静かで、テレビで拝見する印象と変わらなかった。俳優としての小倉一郎さんと俳人としての蒼蛙さん、個人としての彼、そして俳句が見事に一致しているのだ。まさに〈本業は私なりけり今朝の秋〉だ。それらを貫くのは句集の隅々に溢れる「優しさ」だ。

 小倉さんは、「サヨウナラ」をしたたくさんの人を偲ぶ。目を閉じて、墓の前で。その人を忘れないために、俳句で偲ぶ。小倉さんの人生は、「サヨウナラ」の連続だった。生後一週間での母との「サヨウナラ」。幼くして兄や姉とも「サヨウナラ」をした。小倉さんの優しさの源泉は悲しみにある。人の世の日向と日陰をとことん知っている優しさだ。句集を読み終えると、サヨウナラも病気さえも怖くないと思えるような得も言われぬ温かさに包まれていた。

黛まどか(まゆずみまどか)/ 俳人(2025/05/31)

 

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囀や歌は唄って歌になる  蒼蛙

集中に「歌」が詠まれた句が散見される。「歌」と「唄」の違いは辞書的には諸説あるが、「歌」の本質は「唄」という民謡や俗謡などのように文化として親しまれることこそにある、という把握だと解釈した。集中エッセイにある作詞家の星野哲郎や詩人のしまなぎさ、東京都の中学校の音楽教師たちとの出会いや自身の作詞経験を信頼しているからであろう。小倉が秋山啓之介のペンネームで作詞した「そうしよう」は、YouTubeでも視聴可能であり、やわらかい旋律にあたたかな歌詞が乗せられている。 季語「囀」から人間の「歌」への連想は、それのみでは直線的ではあるものの、〈歌は唄って歌になる〉のフレーズと合わせて考えると、誰かと気持ちを共有したい人間の心根が現れているのではないだろうか。役者である小倉とは別の顔である作詞と俳句が融合されてできた一句ではないだろうか。さながら映画のスタッフロールのように個人名と思い出が流れてゆく本句集の中で、この句はまるで主題歌のようである。

黒岩徳将(くろいわとくまさ)/現代俳句協会青年部長・いつき組・街・KENOBI(2025/05/24)

 

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   元妻・昌子逝く
絵画のごとき入道雲の何処かに君は   蒼蛙

〈絵画のごとき〉という一語が示すのは、入道雲を外側から眺めているという立ち位置だ。しかしどうやら〈君〉は入道雲の中の〈何処か〉にいるらしい。絵画のような真っ白な入道雲。その中にいることは分かっても、どこにいるのかまでは分からない。手が届きそうに見えながら、決して届かない場所にいる元妻。どこにあるのかはっきりしない天国。
 句集には、追悼句とおぼしき前書きが付された句が多い。他の句の前書きは「山田太一さんサヨウナラ」「市原悦子さんサヨウナラ」といった具合だが、「逝く」と死別が明示されたのはこの句だけだ。元妻は、離婚後おそらく何年か何十年か会っていなかったのではないか。とっくにさよならした人との死別は、さよならとは言えない。逆に言えば、他の句の前書きの「サヨウナラ」は、追悼句を示す単なる記号ではなく、さようならの真率な思いが込められていたわけだ。ああ、嘘がつけない人というのは、こういう言葉選びをするのだ。
 それでも、元妻が地上から入道雲の中へ移ってしまったことに何かの感慨を抱いたとしたら、それは愛と呼べるものの残滓がなせるわざだと、言ってもいいのではあるまいか。

山口優夢(やまぐちゆうむ)/noi誌友(2025/05/17)

 

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春暁のタイヤの音の濡れている

「俳句は生活の一部だ」と、言われたことがある。そのとき私は俳句を始めたばかりで、まだ高校生だったと思う。最近になって、その言葉の意味がわかるようになってきた。俳句と生活は重なりあっていて、生活を俳句に詠んだり、俳句から人とのつながりが生まれたり、強まったり。俳句は表現の手段であると同時に、「生活の一部」でもある。そして、本書『優しさの手紙』は、まさに「生活の一部」としての俳句の集まった一冊である。

 掲句は2024(令和6)年の句。作者はその二年前に癌が見つかり、余命宣告を受けている。奇跡的に癌は消え、抗癌剤治療を続ける作者が詠んだ掲句は、何気ない日常の生活のようで、みずみずしい生を感じさせる。車の音といえばエンジンの音が目立つが、雨の後はタイヤが「シャーッ」というような音を立てて走る。雨の降っているときには、雨音があるからあまり感じないが、雨の後にこそタイヤの音が聞こえてくる。夜中に雨が降っていたのだと気づく朝。これから活動が始まる朝。生命の息吹の動き始める春。雨に生かされて、これから何かが始まり、車のようにどこかへ向かって走って行くのだという希望を感じさせる。

〈春暁〉のさっぱりとして潔く、明るい響き、切れ字を使わずに流れる言葉運び、〈濡れている〉とつぶやくような下五。そのどれもが、生きていることの喜び、何ともない普通の生活ができることの喜びを表現している。毎日何気なく過ごす「生活」は、当たり前のものではなく、ありがたいものだという気づきがあったからこそ、掲句が輝く。「私にはいつも俳句が傍らにあった」とあとがきで述べる作者にとって、まさに俳句は生活の一部だったのではないか。

島崎寛永(しまざきひろなが)/雪華、ポプラ(2025/05/10)

 

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みんなみんな霧の中から出てこいよ  蒼蛙

 掲句は令和6年9月1日、群馬県伊香保町で開催している「夢二忌俳句大会」に選者として来県いただいた際の出句作品として記憶している。蒼蛙さんとのご縁は今から15年ほど前。横浜髙島屋での私の陶芸の個展にお越しいただいた頃に遡る。その後、平成28年より「夢二忌俳句大会」の選者をお願いし、毎年伊香保・榛名にお越しいただいていた。ところが3年前、蒼蛙さんから電話で癌が見つかったことを知らされたのだ。「全快されたらまた伊香保に来てくださいね」と言って電話を切った。その後はご承知の通り見事に癌を克服され元気な姿で昨年の夢二忌俳句大会の選者を務められたのである。
 河内静魚さんの序文にもあるように蒼蛙さんは追悼句の名手である。俳優仲間や知人友人への手向けとして故人への思いを吐露した十七音には心打たれる。そんな蒼蛙さん自身が一度は死に直面したのである。8月31日、夢二忌の前夜句会で霧深い榛名山の景を目の当たりにされ、そこに生死の境目を重ねられたのかもしれない。他界された懐かしい人々の顔が思い浮かび、口をついて出てきた言葉がそのまま一句になったのであろう。作為のない無垢な思いが榛名の霧に託されたこの句は、同じく選者としていらしていた小澤實さんの選に入った。
 蒼蛙さんは今年、令和7年度の「第30回夢二忌俳句大会」の選者として、また伊香保・榛名を訪れる。

木暮陶句郎(こぐれとうくろう)/夢二忌俳句大会実行委員長・ひろそ火主宰・ホトトギス同人(2025/05/07)

 

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冬木の芽少年恋を言い出せず  蒼蛙

全体を通して生活のなかにあるさまざまなぬくもりや彩りが豊かに描かれた句集だと思った。

掲句の〈少年〉は、口に出さないことをあえて選択しているのではなく、ただどうしても言い出せないでいる。その様子はきっと、傍から見れば分かりやすいものだったのだろう。春にむけて鱗片や樹脂にまもられながら、ひそやかに、それでいてたしかな存在感をもって息づいている〈冬木の芽〉に、恋心を持てあましながらもたいせつに抱える少年が重なり、作中主体が少年を見守るあたたかなまなざしを感じられる。また、この季語があることで、芽吹きのころには少年の恋が実るのではないかとわたしたち読者も期待してしまう。いまはまだ、大切なあの子に想いを届けるまでの準備期間。これから少年が恋心を言い出せるまで、冬木の芽が色づくまで、その幼いいじらしさをそっと応援していたいと思わされた。

榎本佳歩(えのもとかほ)/「noi」誌友(2025/05/03)

 

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噴水やまた吹き上ぐるまでの黙   蒼蛙

 大きな公園のど真ん中にある噴水。吹きあがっては、沈み、また吹き上がる。その繰り返しには「ま(間)」がある。何気ない風景だが、その「間」を〈黙(もだ)〉と詠んだ。詩人的発想だ。〈黙〉はものを言わない瞬間でもある。人も活動しては休み、また活動する。公園の風景だけでは終わらない人生観をも想起する。

 句集『優しさの手紙』の題は、どんな俳句からついたのだろうか。読んでいくうちに、折々に綴られたエッセイからその疑問は解けた。山田太一さんへの追悼句〈優しさの手紙を今も冬あたたか〉の句からだった。

 蒼蛙さんは、俳人でありながら、俳優さんでもある。仕事柄、多くの知人、友人がいる。これまでも多くの出会いを経験し、また誰も経験したことのないような辛い思いもした。時に大きな波に呑まれたり、遊ばれたり。噴水のような人生がこれからも続くのだろうか。

佐藤文子(さとうふみこ)/「信濃俳句通信」主宰(2025/04/30)

 

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本業は私なりけり今朝の秋  蒼蛙

人生は一冊の句集である。その言葉に相応しい句集が、小倉蒼蛙さんの第四句集『優しさの手紙』である。作品を見て、僕の選んだ一句。蒼蛙さんと言えば小倉一郎の名で全国に知られた役者。ギター奏者、篆刻家としても知られ、他にもいくつもの顔を持つ多彩な文化人である。しかし大方は役者が本業だと思っているだろう。僕もそう思っていた。だが御本人は〈本業は私なりけり〉とおっしゃる。蒼蛙さん自身が本業なのである。蒼蛙さんはどんな役柄を演じても上手で、その役の人生を見事に表現されている。蒼蛙さんの役に対する心情はその芝居に滲み出ている。でも、その心情が語られることはない。役者が語るのは台詞であって、生の言葉ではない。生の言葉が聞けるのが蒼蛙さんの俳句だと思う。この句集には、蒼蛙さんの生の詩の言葉がキラキラと輝いている。それも普段の心で普段の言葉で。掲句を支えているのは、立秋を意味する季語〈今朝の秋〉である。いよいよ人生の佳境を迎える蒼蛙さんの心持ちが、〈今朝の秋〉に重なったように思う。

最後に、本書カバーの前と後ろには蒼蛙さんの全身写真が配されている。これを見て、良寛の〈裏を見せ表を見せて散るもみじ〉を思い出した。

中村十朗(なかむらじゅうろう)/俳誌「や」編集長(2025/04/26)

 

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人の子を我が子となして初芝居     蒼蛙

普段、私たちは他人の子を見て愛らしいと感じることはあっても、そこに本当の愛情を抱くことはない。その愛情は、本来は自分の子に向けられるべきものであり、血のつながりや共に過ごした時間によって育まれるものである。

初芝居という新年の特別な舞台の中では、他人の子であってもまるで自分の子のように感じられる瞬間があるのだろう。

その中で〈なして〉という言葉には、この子が真に我が子であるはずはないという理性と、それでもこの子が我が子のように思えるという感情が交差している。この曖昧さに人生に根ざした役者としての生き方を感じさせる。その〈人の子〉に児童時代にはエキストラとして活動し、その後児童演劇研修所に入所した筆者自身を重ねているようにも感じられる。この〈人の子〉もいずれまた別の人の子を我が子となす日がくるのだろう。

蛙多楓太(あたふうた)/総合文芸同人誌『Rich』同人(2025/04/23)

 

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